僕がいくら沖縄の人々に心を寄せているといっても沖縄を生まれ故郷として暮らす人たちの思いを十分に代弁するのはむずかしいです。

―以下引き続いて「歴史地理教育」今月増刊号より与那国島ご出身の宮良純一郎さんの寄稿文の引用―

2与那国島の地勢と歴史

台湾との歴史的な関わりと与那国島の特性を踏まえ、本稿を進めます。

島の成り立ちがイメージできる景勝地、ティンダ・ハナタがあります。

語彙から共通語を当てはめれば、ティン(天空)ダ(家)ハナタ(端)です。八重山層(泥岩・砂岩層)に琉球石灰岩層が座り、家の端(軒先)が天空に聳えるように立っています。

複雑な地殻変動を繰り返すことよって出来上がった自然の造形です。

ハナタ(軒先)が天然展望台(標高80メートル)になつており、眼下に町役場がある集落を一望できます。

ティンダㇵナタから見た祖納集落 (花岡6月24日撮影)

さらにそのハナタの上(屋上100メートル)に立つと、壮大な東シナ海を目の当たりすることができます。

与那国島と台湾はまさに一衣帯水、黒潮が流れる海が両島の交流・結びつきを強くしてきました。

好天時に島の西崎(いりざき)から台湾の島影が望見できる与那国島は、太古から万国津梁として近隣諸国と交易をした琉球王国時の大交易時代、海路の要衝としてアジアに向けた玄関口の役割を果たしていたのです。

一四七七年、朝鮮済州島の漂流民が与那国島で手厚く保護され、半年ほど島で過ごしています。

その体験記は朝鮮李朝の公式記録(『成宗実録105巻』)に残されています。

その体験記によると、稲作や織物づくりなど、生活の営みが事細かに描写されています。

大交易時代(一二世紀~一五世紀)、与那国島は、中央と服属関係にはなく、大交易の影響を受けて自立性の高い牧歌的な暮らしが営まれていたことが想像できます。

ところで与那国島が琉球王国の統治下に入ったのは、 一五一〇年に西表島の祖納当が与那国与人に任命されてからとなっています。

そして薩摩支配(一六〇九年)後に受けた苛酷な「人頭税」制、一六三七年から一九〇三年まで二六六年も長きにわたって島を困窮の淵に沈めてきました。

一八九五年の下関条約(日清戦争の講話)による日本の台湾領有は、海を走っていた国境線を解消しました。

それから一九四五年までの五十年間、与那国島と台湾とは、経済、文化、生活全般において、深く結びつくことになりました。―続く―

2024年7月24日 記

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