戦争のセの字も知らない戦後生まれの木原防衛相がイギリスに行き国会の審議もなく次々と英国防相、イタリア国防相と軍事協定を結んでいます。

平和憲法を無視した暴挙で絶対に許せません。

しかしこんなトンデモ人物を野放しにして日本を戦争に向かわせているのは我々有権者です。

そしてその最前線に立たされているのは

台湾と僅か110キロしか離れていない与那国島の町民です。

―以下引き続き「歴史地理教育」今月増刊号より与那国島ご出身の宮良純一郎さんの寄稿文の引用―

3)台湾と与那国島

(1)台湾統治下、生業を求めて     ・

戦前・戦中の五〇年間において、与那国が台湾と強い結びつきを持った事例は、筆者の親の世代からよく耳にしました。

筆者の父宮良保全(一九一八年生)は、

一九三四年、理容業習得のため、台湾へわたり 一九三九年までの五年間を過ごしています。

自立していこうとする矢先に、召集令状が届き、戦地に赴いたのでした。

与那国町老入クラブ連合会『創立二五周年記念誌』では興味深い証言が残っていますので三点紹介します。

崎原フジ(一九二二年生)「女中奉公、産婆、看護婦、和洋裁(の生業を求め)など、小学校を卒業すると先輩や知人をたよって台湾にわたりました。」

冨里康子(一九一六年生)

「大きな問屋には与那国出身の店員が大勢いました。働きながら各種の資格をとられました。医者もおられました。」

池間 苗(一九一九年生)

「当時の与那国は、台湾に出稼ぎに行った人びとで潤っていました。

与那国では日本銀行券よりも台湾銀行券の方が力がありました。

台湾行の船には毎便、豚、いも、鰹節を積み、台湾からは日用雑貨や農機具類が入りました。」

(2)与那国・台湾間の移出入

池間苗が述べた与那国・台湾闇の移出入を根拠付ける内容・資料が、松田良孝著『与那国台湾往来記』に載っています。

それは「八重山新報」(一九三三年五月一五日付)を通した説明で興味深いものです。

著者の松田は、与那国が台湾と経済上密接の闘係にあることを具体的な数字を挙げて指摘した本記事の解説部分を紹介している(「 」内、本島とあるのは台彎のことである)。

逐年本島との交易の率が逓増して行くの実情で今や与那国は本島と経済上密接の関係にあり、経済的にみた与那国は何処までも本島に追随的、活躍は将来に期して待つべきものがあり、又経済的に刮目すべきである。」―続くー

与那国最西端の西崎(いりざき)から台湾を望む(花岡撮影)

2024年7月26日 記

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