27日に9条の家を訪ね僕の講演会の打ち合わせをしました。
昼間、行くのは初めてでしたが何と僕の母校の小学校のすぐ近くと判明。
打ち合わせ後に70年前に卒業した杉並第六小学校を見に行きました。
卒業式で身長わずか127センチだった僕は卒業生総代を務めました。
悲しいかな、付近の風景は小学校を除いて殆ど残っておらず僅かに遊び場だった馬橋稲荷神社がその姿をとどめているだけ。
大手K出版社社長の大きな家、家にはラジオしかない子供たちが夜「テレビ見せてくださーい」と見に行った家も、小林多喜二の表札がかかっていた旧居跡も今は皆マンションに。
当時、関東配電(現東京電力)の看板のかかったビルも、初恋の同級生たちの家も見当たらず。
杉六にはヘレンケラー女史も来られて全員校庭でお話しを聞きました。
PTA会長には「みかんの花咲く丘」を作詞した加藤省吾さん。
俳優の有島一郎さんもよく校庭でお見掛けしました。
ミヤタ・ハーモニカで有名なハーモニカ奏者の宮田東峰さんにも歯医者の待合室で良くお会いしたっけ。
今よりも文化の香り高い杉並でした。
小学校の社会科の時間、全員で歩いて高円寺エトワール劇場に行き、映画「ひめゆりの塔」を鑑賞しました。
この映画を見た僕は可哀そうなあまり1週間食事がのどを通らず。
この9歳の時に見た映画が僕の反戦の原点です。
あっという間の昭和かられいわですが敗戦10年にもならない当時のこと、先生方はみな戦争体験者ばかり。
しかし戦争の惨禍をくぐり抜けやっと戦争が終わり、新憲法が施行されて間もないころだったし皆貧しいながらもホッとして平和な日常生活を感謝し楽しんでいました。
みんな過去を振り返るより明るい未来の方向を向いて生活していた気がします。
今になると、もっともっと戦前の事、戦中、戦争体験を先生たちから聞いておきたかった、と悔やまれます。
9条の家の打ち合わせで講演会の日程が決まりました。
2月14日(金)午後2時から4時まで(チラシの時間を訂正)
早めに来られて中をご覧になるのも良いです。
9条の家のオーナー金野奉晴さん作成のチラシ(時間訂正前のもの)を添付しますのでお時間のある方は日本に一つの「9条の家」に是非お出掛下さい。
2025年1月30日 記

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花岡さんは杉並の小学校。私は杉並区に隣接した中野区の小学校で、使っていた最寄駅は中央線の高円寺駅。花岡さんの反戦の原点は9歳の時に観た「ひめゆりの塔」。私の反戦の原点はこの小学校の6年生の時の担任が、学徒動員で戦場に行き、その体験を、6年生の1年間を、1学期と2学期で1年分の授業を終え、3学期を彼の戦争体験を話すことに使った31歳の若さの情熱によるものでした。(3年前、私はこの体験を朝日新聞の『声』に投稿し、採用されました)そしてもちろん、この大胆な、規則を無視した授業を支えたのは校長でした。さらにこの小学校では、6年生の1年間、日本の政治、世界の政治についての授業があり、その授業をするのは校長でした。(試験はありません)
ここ何年も、何十年も、日本では、学校で、職場で、また単に友達同士でも、政治の話はしない、する奴はダサいといって敬遠されると聞きます。なんと寂しいことでしょう。
美会子さん
そうでしたか! 私の最寄り駅は高架式になるずっと前の阿佐ヶ谷駅でした。駅から続く一番街商店街を少し入ったところに小さなカメラ屋がありその前を通るたびに店頭に並んでいた蛇腹カメラが欲しくて欲しくて。一昨日同じ場所に行きましたら何とそこはパチンコ屋の景品買い店舗になっていて。
70年前は矢張り遠い昔の様です。