―昨日の続きー
「では、他国から侵略されたらどうするのか」という反論である。
憲法に関する講演に行っても必ずと言っていいほど出てくる質問であり、真面目な人ほどおそらく答えに窮するだろう。
だが、どこかの国が最初に他国との関わりで一切の武力を捨てる、ということをしなければ、「他国が攻めてきたらどうするのか」という不安を根本的に消去することはできないのであり、その最初の国になる勇気ぐらいはもってみる価値があると僕は考える。
無論、論理的な可能性として「他国が攻めてくること」は当然、あり得る。
しかし、そのリスクと、「他国が攻めてくることを」前提に武装をエスカレートさせ互いに威嚇し合うことの結果として本当の「戦争」に至るリスクと、果たしてどちらが大きいリスクなのか。
いずれにせよ、リスクを背負わねばならないとしたら、どちらのリスクを背負うべきなのか。
国と国との関わりが双方が片手で武器を後ろに隠し持ち、時にはちらつかせつつ行う「対話」としてある限り、そのちらつかせる武器は互いにエスカレートしていかざるをえない。
国との対立とその果ての武力の行使はそこに至る以前に言葉による交渉プロセスがまずあることを忘れてはならない。
結局のところ、軍事カードの切り合いからなる外交はチキンゲームであり、一方では豊かな国はよりカードを増やし、貧しい国は核開発やテロといった弱者にも可能なカードを切らざるをえなくなる。
それなのにこの国(注:日本)は、自分たちもより強力なカードを持ち、それが使えるように「9条」を変えたい、とわざわざ自ら馬鹿げたチキンゲームに参加しようとしている。
そのチキンゲームこそが「現実」であり、それ以外の「安全保障」などありえない、という考え方はなるほど、一つの立場ではある。
しかしそこから導きだされうるのは、だから我々も相手より強い武器を持て、そしてやられる前にやれ、という発想でしかない。
「テロ」はいくら国家が軍事力を拡大しても国家間での紛争ではないのでそのことでは抑止しようがない。
テロの背景にあるのは、多くの場合、そのような手段によってしか事態を解決できないところまで追い込まれた人々の存在であり、テロという方法を否定するには、その背後にある問題を解決するしか実は手段はないことを皆、気づいているはずだ。
―続くー
速報
嬉しいニュースです。ニューヨークの花岡しげる勝手連が領事館で在外投票をしてくれたとの写真付き報告です。

昨日の朝は青森駅頭で7時半からマイク無しの街宣開始。
青森県内の街宣を終えて秋田県に向かい6時に青森県連街宣車から秋田県連街宣車に乗り換えて
大館で1泊。
詳しくは「コスタリカ流 平和の風を国会へ」を
2025年7月6日 記
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