「非武装中立論」とはそのチキンゲームから、まず降りて、そしてチキンゲームの場において「ことば」によって解決することにのみ腐心せよ、という安全保障論である。

だがこの国の安全保障論は「武装すること」が男らしいとか一人前といったおよそ政治論ではない、あくまでも個々人のアイデンティティとして処理されなくてはならない問題が実は感情的な支えとなっていることにはいいかげん気がついてしかるべきだ。

皆が「武力」というカードをちらつかせる中に素手で入って行くことが、「弱腰」なのだろうか。

むしろ、それはもっとも勇気ある振る舞いのはずである。

石橋政嗣氏の『非武装中立論』と現在では、もちろん時代背景は異なる。

例えば本書の大前提となっている米ソの冷戦構造はない。

しかし、本書が書かれた時点では「非武装中立」の「中立」は米ソに対する中立だったが、むしろ当時よりは半ば複雑化した世界情勢を前にした時、「中立」という立ち位置はもっと積極的な意味を持ってくる。

あらゆる「対立」の和解にコミットする、ということが「中立」の持つ意味であり(注:私の言う積極的中立)仮にそのようにふるまい粘り強く活動しうる国があれば、回避できる悲劇はいくつもあったし、これからもあるだろう。

石橋政嗣氏の「非武装中立論」の基本にある、軍事力による安全保障は本質的に不可能なのだ、という立場はその意味で重要である。

それを大きな前提としながらもう一つの安全保障論が組み立てられるべきだ、というのがぼくの立場だ。

―続くー

昨日の選挙活動報告は『コスタリカ流 平和の風を国会へ」をご覧ください

2025年7月7日 記

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