終生忘れられないアメリカ人青年の親切な行為

私は本書で世界の平和は軍隊と兵器(兵器軍需産業)の廃絶、日本の平和は在日米軍撤退と自衛隊の非軍事組織化でしか創れない、と書き日本の恒久平和実現への具体的ロードマップを書いています。過激な本書のタイトルを見て手に取るのをはばかっている皆さん、この本を書いている私は実は大勢の親しいアメリカ人の友人を持ちジャズや映画・芸術などアメリカ文化をこよなく愛するアメリカ大好き人間です。自衛隊についても銀行の主力お取引先として防衛庁(当時)の幹部はじめ皆さんとはニューヨーク支店時代特に親しく交流させていただきました。日本勧業銀行は1897年日本勧業銀行法により設立された特殊銀行から1952年に民間の普通銀行に転換した経緯があり戦後誕生した新官庁「防衛庁(当時)」は大切なお客様です。私は「自衛隊も米軍もいらない」と書いていますがそこに生活し仕事をしている個人を指して「いらない」言っているわけではまったくありません。大概のアメリカ人、防衛省、自衛隊員のみなさんそれぞれ皆さん素晴らしい人々です。

私は1973年6月に第一銀行との合併記念事業として始まった第一勧業銀行の大学院留学研修制度の第一期生に2000人以上の応募者の中からトップで選抜され30歳にして初めて外国の地を踏みました。生まれて初めての外国であるアメリカに単身ホノルル、ロスアンジェルスを経由してデンバーの地に降り立ちカリフォルニア大学バークレー校(大学院)に行く前の2か月余りサマースクールとしてボールダーにあるコロラド大学Economic Institute(経済学研究所)で研修を受けました。その夏休み期間中に直接体験した素晴らしいアメリカ人青年との出会いの物語をここでご紹介したいと思います。研修が始まったばかりの1973年7月に日本の日銀や金融機関などからきていた11人の留学生のうちの3人とともに4人でレンタカーを借りて西部アリゾナ、ネバダ州などに旅行に行った時の出来事です。
私は18歳で父を亡くし大学時代は母子家庭の苦学生でしたから学資稼ぎのために夏休みも冬休みもなく働きコロラド大学に来て初めて大学生らしい夏休みを過ごすことができました。
ここに書くのは第2次世界大戦後わずか28年の実話ですがこんな素晴らしいアメリカ人青年の20歳ほど先輩たちと日本にも当然いたであろう20年前の有為な日本人青年たちが個人的恨みも何もない中、お互いに武器を持って殺し合っていたと考えると戦争の罪深さを痛感せずにはいられません。
物語は約2週間のドライブによるアメリカ初体験旅行中のこと、ある夜高速道路を走っていて我々4人は車のガソリンが欠乏しかかってきたことに気付き急いで一般道におりました。アメリカの高速道路では次の出口まで100マイル(160キロ)以上も降り口がないこともよくあります。真っ暗闇の一般道に停車してガソリンも空になりそうな中4人で心細く車の脇に立ちつくして考えあぐねていたところ、偶々そこを通りかかった車が停車し中からアメリカ人の若い青年が3人出てきて「どうしたのか」と我々に尋ねました。事情を話すとそのうちの一人が自分の車の中から短いゴムホースを取り出してきて自分の車のガソリンタンクから口でガソリンを吸い出して我々の車に給油をしてくれたのです。聞いてみると彼らはベトナム戦争の戦場から2年ぶりに帰国し今、故郷に帰る途中の学生であるとの事。私たちは丁重に下手な英語でお礼を言って彼らの車が走り去るのを見送ってから走り出しました。そして1時間ほど真っ暗闇の道路を走り続け漸く薄ぼんやりと次の街の明かりが見えてきた時、既に深夜でしたが1台の車が前方の道路脇に停車して尾灯を点滅させているのです。私たちが近づくと中から1時間前に私たちの車に給油をしてくれた先ほどの3人の青年が出てきて、「あなた方の車が無事にこの街までたどり着けるかどうかが心配でずっと待っていた」というのです。「もしなかなか来なければ又元の道を戻ってさらに給油をしてあげようと考えてここに待っていた」と。我々が街に無事に到着したのを確認して彼らは安心したと言って2年ぶりに家族が待つ故郷の街に向かって走り去って行きました。たった28年前まで敵と味方の国同士であった我々が深夜のそれこそ人気のない山道でたまたま遭遇し想像さえしなかった親切を受けた貴重な思い出です。このエピソードの他にも私は語り尽くせない数限りない正義感溢れる友情と思いやり深い支援をアメリカ人からもらってアメリカが大好きになりました。今思い出しても涙が出るほどで自己犠牲をいとわない純粋なアメリカ青年の実話としていつまでも私はこの時の感謝の気持ちが忘れられません。

6月18日記

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