ピースアゴラ呼びかけ人の一人、音楽家の藤田史郎さんの講演記録です。

―以下藤田さんの貴重な講演記録からの引用―
 2015年8月、敗戦70周年の記念日にあたって私にドイツの反原発運動について話を、とのご要望でしたが、私はそれを少し広げてドイツ滞在40年、福島原発事故をきっかけに感じた日本とドイツの違いなどについてお話させていただきます。与えられた時間が限られており、ほんの表面的な比較しか出来ませんがその旨ご理解いただきたいと思います。
 私が西ベルリンに留学したのは1969年3月でした。当時はベルリンの壁が出来てからまだ8年しか経っておりませんでしたので、東西南北を壁に囲まれた「陸の孤島・西ベルリン」の現実は、政治に疎い私に否が応でも冷戦という厳しい国際情勢を肌で感じさせることとなりました。だからといって急に政治に興味が湧いた訳ではなく、相変わらずのノンポリでおりました。ただドイツ語の勉強を兼ねて、出来るだけ新聞を読むようにしておりましたので、分からないなりにも、世の中で起こっている事をドイツ語で理解出来るようになり、そして政治家や政党の名前、政党の主張、政権の移り変わりなど、日本のそれより詳しく理解出来るようになりました。以後もずっとノンポリであった私を多少なりともポリティカルに転換させた出来事は、何と言っても3・11の東北大震災と福島第一原発事故でした。
 テレビを通してみる津波の画像は信じられない光景でした。そして原発事故。海外にいる日本人はみんな居ても立っても居られない心境だったと思います。直接に何の手助けも出来ない苛立たしさ。何をしたらいいのか、みんなそれぞれに考えた事と思います。私自身は自分が企画していたコンサートで寄附金を募り、集まった額と同じだけ自分が上乗せし、倍にしてハンブルクの日本国総領事館に届けました。
 一方、原発事故に対するドイツ人の反応は日本人以上に敏感でした。それは1986年のチェルノヴィル原発事故の経験があるからでしょうが、私のまわりにいるドイツ人は口を揃えて家族をドイツに呼び寄せるよう忠告してくれました。 日本の家族とも電話で話しましたが切迫感の温度差を感じました。これは矢張り報道と市民の意識の違いではないかと思っていす。
 余談ですが、チェルノヴィル事故があった当時、丁度今は亡き友人がミュンヘンにご家族と留学されており、折から来独中の私の両親も一緒に、汚染されていない野菜を持ってミュンヘンのお宅をお訪ねした思い出がございます。当時、放射線プルームは北ドイツより南ドイツ(バイエルン)に多く流れたので、南ドイツの山々は可成り汚染されました、今でもバイエルンではキノコやイノシシ、鹿の肉は食べられません。

 原発事故発生直後の日本の報道は政府の発表をそのまま伝える傾向が強く、独自の取材による真実に迫る報道が少ないように思いました。
 私個人について言えば、お恥ずかしいのですがそれまで原発が日本に何基あるかも知らず、原発で製造した電気を当然のように使っておりました。3・11によって目が覚めました。インターネットでいろいろ調べているうちに京都大学の原子炉実験所の助教でおられた小出裕章さんのブログに出会い、日本の原子力政策は所謂”原子力村”といわれる利権集団に牛耳られていて、他者の犠牲の上に成り立っている。その構造は沖縄の基地問題と同じであることを学びました。沖縄問題も全く他人事としか捉えておらず、今まで如何に沖縄の人々が苦しんで来たかも知らずに過ごして来ました。恥ずかしい事です。でもそれは日本の全国紙が真実を伝えてこなかった事にも起因しています。6月末に沖縄県の翁長知事が日本記者クラブと外国特派員協会で記者会見を行いました。その模様をインターネットで見ましたが、翁長知事は原稿も見ずに、琉球王国から現在に至るまでの沖縄の歴史を辿りながら、如何に沖縄がアメリカと日本に理不尽な扱いを受けて来たかというオール沖縄の民意を余すところなく、しかも一分の隙も見せず訴えておられました。その姿はとても崇高に見えました。

 40年ドイツに暮らし、ドイツ社会に深く入り込んで生きて来た私は、帰国後日本社会とドイツのそれとの違いに未だに翻弄されております。
 それでは、今からドイツの原発政策、ドイツの反原発運動、日本とドイツのジャーナリズムの違いなど、福島原発事故をきっかけに私が感じた日本とドイツの違いについて考えてみたいと思います。

1.ドイツの原発政策

 ドイツの原発政策は1953年、米国アイゼンハウアー大統領の国連での「原子力平和利用」のアピールに呼応し、1955年、F.J.シュトラウスが原子力大臣に任命され、1960年原子力法案が可決され始まりました。時を同じくして日本も中曽根康弘や正力松太郎を中心に同じような道をたどる事となります。

 ドイツには2011年3月時点で合計17基の原子炉がありましたが、福島事故後に30年以上を経た原発7基、修理中の1基、合計8基の稼働を停止しました。
 残る9基も稼働年数32年をめどに順次停止されることになっており、直近ではその第1号として今年(2015年)の6月27日、南ドイツにあるGrafenrheinfeldの原子力発電が停止されました。これで現在稼働中の原発は8基となります。

 ドイツでは1986年のチェルノヴィル原発事故をきっかけに脱原発の動きが活発になって来ますが1998年の政権交代まではドイツ政府はまだ原子力推進でありました。
 現首相のメルケル氏は当時、コール政権の環境大臣でもありました。1998年に16年続いたコール政権が、『社民党(SPD)と緑の党(B90/Grun)の連立』であるSchroder政権 に取って代わると、脱原発色が濃くなりました。その中心的存在は、環境大臣で緑の党党首のJ.Trittin氏です。このTrittin氏は若い頃から身体を張ってデモに参加していた“こわもて“です。余談ですがドイツの政党は良くシンボルカラーで呼ばれます。保守のCDU(キリスト教民主同盟)/CSU(キリスト教社会同盟)は黒、SPD(社民党)は赤、緑の党は緑、FDP(自由民主党)は黄色。そして右翼政党は焦げ茶色。
 例えば現政府はSchwarz(黒)/Rot(赤)、前政府はRot(赤)/Grun(緑)の連立と呼ぶ。中には赤、黄、緑の”信号連立”や、ジャマイカ国旗色になぞらえた幻の”ジャマイカ連立”もあった。
 2005年の総選挙でメルケルの率いるキリスト教民主同盟(CDU/Schwarz)が第 一党となり脱原発政策が後退するかに見えたが、SPD(社民党)との大連立を組んだため脱原発政策は、辛うじて維持されました。
 しかし、2009年の第2次メルケル政権では、中道の自由民主党 (FDP/Gelb(黄色))と連立を組み、2010年には電力業界の意向に配慮して原子炉の稼働年数を平均12年延長する決定を下しました。(2000年の取り決めでは稼働30年で廃炉)
 その矢先の2011年、福島原発事故が発生しました。メルケル首相は福島事故の約10日後の3月22日に有識者に依る倫理委員会を招集し、将来のエネルギーの在り方について討論させました。ちなみにこの倫理委員会には原子力の専門家や電力会社の人間は入っておらず、教会関係ではカトリックとプロテスタントから一人ずつ、消費者、社会リスク及び環境問題の専門家それに与野党議員などから成り立っていたそうです。委員長は元ドイツの環境大臣でヨーロッパ議会でも環境問題の専門家であったK.Topferでした。
 委員会の出した結論は、

「将来のエネルギーは再生可能エネルギーで行うべし!」


 そして彼女は同年6月、ドイツは2022年までに全原発の停止するという勇気ある決断をしました。しかしその裏には、原発の危険もさることながら、折しもその直前に行われた地方選挙で、今まで保守の牙城だったバーデン・ヴュルテンベルク州とメルセデス・ベンツの街 Stuttgartの両首長を緑の党に明け渡す結果となりここで方向転換しないと今後の政権維持が困難になるとの計算も働いていたようです。
 しかし自身も物理学者の為、使用済み核燃料の貯蔵施設の問題等、未解決の問題山積みで原発の未来は無しと勇気ある決断を下す事が出来たのではないかと考えます。

2.ドイツの反原発運動

 戦後、東西冷戦のまっただ中にあったドイツは、ソ連のミサイルの脅威にさらされており、60年代から毎年イースターの祝日に各都市で平和を願う”平和行進”、所謂オスターフリーデンスマーシュが行われて来ました。これは50年経った現在も続いています。
 このようにドイツ人は自己の意思表示としてデモに参加する事に慣れており、福島事故の翌日にはドイツの原子力発電所の一つであるNeckerwestheimからその州の首府であるStuttgartまで6万人による”人間の鎖”ができ、3月26日にはドイツ国内四つの都市で合計25万人以上が「Fukushima mahnt (福島は警告する)」を スローガンにデモを行い、600の都市で毎週月曜日に「Mahnwache(警告の見張 り)」を実施しました。
 そして今年も3月11日にはドイツ各地で同じような「Mahnwache」が実施されました。
 日本もようやく気軽にデモに参加する気運が高まって来てはいますが、まだ土壌として根付いていないような気がします。でも安倍政権の余りの横暴さに危機感を肌で感じ始めた学生や高校生のグループが自主的に立ち上がり始めたことは、将来に向けて希望が見えて来ました。
 ドイツの反原発運動は、端的に言うと”草の根運動”が出発点です。1970年代からいろいろな環境問題をテーマとした市民グループがそれぞれの方法で活動していたのですが、それらが後の緑の党の母体となり、70年代中頃から組織的になってきました。又デモの形態も多様でお祭り騒ぎのようなものもあったり、過激なものもあったりといろいろです。2011年11月にフランスの再処理工場で処理された放射性廃棄物をキャスクにいれて北ドイツのゴーアレーベン中間貯蔵施設まで運搬する、所謂Kastortransportに反対する為、脱原発を訴える集会がゴーアレーベンの近くの街ダンネンベルク という街(私も2回程行ったことがあります)で開かれ、ドイツ各地から2万3千人が集まりました。
 その時はお百姓さんがトラクターで道路を封鎖したり、過激な例では列車の通り道の線路に自分の腕をコンクリートで固めてしまって運搬妨害をするなどというものまでありました。でもこれらは、意思を行動に表す事で世論の形成に一役買っています。
 デモといえば、反原発ではありませんが、私の40年のドイツ滞在中最も印象に残ったものは何と言っても1989年11月9日の東西ドイツの壁崩壊直前に東独ライプチッヒで毎週月曜日に行われていたMontagsdemonstrationです。ライプチッヒでは毎週月曜日夜に旧市街にある聖ニコライ教会で平和を祈る集会(Friedensgebet) があり、その後市民が ”Wir sind ein Volk”(我々は一つの民族なんだ)と叫びながらのデモが繰り返されておりました。その様子は西独テレビでも頻繁に報道されておりましたが、人々は東独政府が1968年のチェコのプラハの春のように軍隊にデモ隊を弾圧させるのではないかと心配しておりました。
 私の知り合いのライプチッヒ音楽大学のピアノ教授は、後日私に「あの日はもしかしたら軍の弾圧があるかも知れないと思ったが、身の危険を冒してでもデモに参加せずにはいられなかった」話してくれました。事実、政府はその夜、既に軍隊を配備させ正に一触即発の状況であったそうです。世界的に有名な指揮者クルト・マズーア氏があくまでも冷静を保ち決して暴力を行使しないように群衆にマイクで訴えかけている様子を私もテレビで見ておりました。そして悪夢は回避されました
 反原発運動とは多少離れましたが、市民の意思表示としてのデモの成功例として、紹介させていただきました。
 ドイツの市民運動で特徴的なのは市民の意識の高さです。市民はメディアによりエネルギー問題、環境問題、特に原子力のリスクについて豊富な知識を持っており関心が高いのです。一方お隣のフランスは国策としての原発推進ですから、原発のリスクや環境問題の報道はドイツ程ではなく、市民の関心も低いのです。これは今までの日本と良く似ています。そこで重要になるのはジャーナリズムの在り方です。

3.ドイツと日本のジャーナリズムの違い

 ドイツと日本のジャーナリズムの違いをまざまざと見せつけられたのは福島原発事故の報道に関してでした。ドイツのテレビでは事故後の風向きを天気図上で示しいるのに、日本では何故か報道しませんでした。そのお陰で多くの避難者が被爆してしまいました。
 又新聞も政府の発表をそのまま記事にするだけで、独自の取材で政府及び東電の姿勢を追求することはありませんでした。これは勉強して分かった事ですが、日本には”記者クラブ”という大手マスコミのみが所属出来る日本独特のシステムの存在と、クロスオーナーシップという新聞とテレビのオーナーが同じであることに原因があるようです。公共放送であるNHKは最早その独立性を疑われるような体たらくですが、日本テレビのオーナーは読売新聞、フジテレビは産經、TBSは毎日、テレビ朝日は朝日新聞という具合で、これではテレビと新聞の独立性が保てる訳がありません。
 ドイツの場合、法的にもテレビと新聞は完全に独立していますのでそれぞれが、相手に気兼ねせずに、独自の取材をし自分の意見として報道します。
 当時、ZDF(ドイツ第2テレビ)のアジア総局長であったヨハネス・ハーノ氏の福島報道は、日本では見られない程の内容の濃い(状況を正しく伝えた)素晴らしい報道でした。又ドイツの新聞は前述の”記者クラブ”と言う官庁との仲良し組織がありませんので、各社が独自の取材をして、それを報道します。従って日本のような”報道の横並び”はありません。私は帰国してから現在まで、ニュースはインターネットとドイツのテレビで正確な情報を得るようにしています。
 悲しい事に現在の日本のメディアは権力の番犬としての役割を忘れてしまい、政府や行政のスポークスマンに甘んじてしまっているようです。民主主義の基本である言論の自由を自主規制によって自ら封じてしまうような現在のマスメディアの潮流を、もっとインターネット等のミドルメディアを活用した報道の多様性を拡大して行かなくてはならないと考えます。最後に、同じ敗戦国であったドイツと日本の戦後70年の歴史認識の違いに少しだけ触れてみたいと思います。

4.ドイツと日本の戦後70年歴史認識

 ドイツと日本は同じ敗戦国でしたが、戦後はそれぞれの形で見事な復興を果たしました。日本はソ連・中国による共産勢力の拡大に懸念を感じた米国の政策転換により、経済大国への道を歩む事となったが、その影で歴史認識をおろそかにしてしまったようです。それは教科書問題でも明らかなように、過去の歴史を真っ直ぐに見つめることを避け、都合の良い部分だけを教科書に載せるような行為でも明らかです。
 今話題となっている慰安婦問題にしても、南京大虐殺にしても過去を忘れたがっている政治家は問題の本質を、強制があったか否かとか、人数が間違っているなどのディテールにすり替えてしまっているように思えてなりません。日本の諺で「旅の恥はかき捨て」というのがありますが、日本人は過ぎ去った事は直ぐ忘れてしまいたいと言うような遺伝子を内に持っているのでしょうか?
 ドイツは300万人ものユダヤ人の虐殺と言う重い過去を背負っているからでもあるが、学校教育に於いてもメディアを通じても、過去の過ちを繰り返すまい、決して忘れまいという意気込みが伝わってきます。未だにテレビではことあるごとにホロコーストの映像を流しています。これでもかこれでもか・・・と言わんばかりにです。
 勿論それは国際ユダヤロビーや近隣諸国からの圧力があるからかも知れません。しかし、基本的にはドイツ人の高い倫理観と心からの反省から来ているのではないかと私は感じています。その代表的なものが、かの有名なワイツゼッカー西独大統領の1985年5月8日「荒れ野の40年」談話です。永井清彦訳の岩波ブックレットから引用します。

 問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。
 後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。
 しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。
引用終わり。

 先日安倍首相が戦後70年談話をだしました。一応「反省・おわび」は継承され「植民地支配」と「侵略」も言葉だけは入りました。しかしあれは何だったのでしょうか。空虚な言葉の羅列。日本国民を代表する人としての、過去の過ちに対する心からの反省とお詫びの気持ちは伝わって来ませんでした。それは安倍首相が自分の言葉として語っていないからだと思います。又談話の中には、ワイツゼッカーを意識したような「世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなくてはいけない」という一節もありましたが、一方で「戦争を知らない世代に謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」と言う部分もあり、何が言いたいのか理解に苦しみました。

 ドイツに40年も暮らしていると、ドイツ人の攻撃的な性格や自己主張の強さに嫌気がさしたりドイツ社会の嫌な面も沢山見て来ました。それだけに日本に帰って来たら日本人の優しさ、肌理の細かさ、親切さが身に滲みました。
 しかし自己主張の強いドイツ人だからこそ、問題が出て来たらとことん議論して、曖昧さを排除して相手を理解しようと務めます。どこかの国みたいに議論を放棄し姑息な手段で憲法をないがしろにするようなことはしません。又市民も自分の主張をしっかり持ち、それを行動で示します。
 日本もそろそろそうなって欲しいと願っていますが、最近の若い人の行動を見ていると少し希望が見えて来た気がします。先日、国会前のSEALsの集会に参加して来ました。
 彼等は自分の言葉で語っています。Sprechchorもラップ調だったり、「安倍はやめろ」と3連譜を使ったり、「民主主義って何だ/コレダ」などととても新鮮でした。
 デモへの参加も組織ではなくみんなそれぞれの個人の意志による行動です。
 若い母親達も、 高校生達も行動を起こし始めました。そして私たちOld’sも・・・・。
 正に”草の根運動”です。

 8月15日の東京新聞、官邸前デモ”金曜日の声”の欄で、日本在住のドイツ人歴史学者クラウス・シルヒトマンさんが「日本はドイツの脱原発政策から、ドイツは日本の平和思想から学ぶことが多いと思う」と語っていましたが、今、その平和が危うくなっています。今日はこの後2時から”国会包囲10万人、全国100万人行動”が行われることになっております。今こそ我々はそれぞれが出来る範囲での意思表示と行動を起こして参りましょう。「今でしょ!」

これで終ります。

2015年8月30日(日)

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