本日の本欄の担当は元東芝の原発技術者小倉志郎さんです。原発について謙虚な専門家である小倉さんの語るあまり謙虚とはいえない専門家についての問題提起は説得力があります

ー以下小倉志郎さんの記事の引用ー

 世界の主要な宗教であるキリスト教、イスラム教、ユダヤ教は一人のあるいは一つの神や創造主を持つ「一神教」と言われている。一方、日本は古来八百万の神々が住む「多神教」の国と言われて来た。科学の発達した現代においても、日本では一般の冠婚葬祭に「神」は無くてはならない存在であり、科学・技術の粋を活かしてなされる原発の建設現場でも、工事の安全を祈願する儀式には地元の神社から神主さんを招いて祝詞を上げてもらっている。しかし、神主さんの祝詞によって、あるいは、祝詞を聴いた「神」によって事故や災害が防げると本気で信じている人はほとんどいないだろう。そのような儀式には、事故や災害が起きないでほしいという願望を形にすることで「安心を得る」という効果を期待しているのだ。

 では、形だけではなく、実質的に事故や災害を防ぐために私たちはどんなことをしているのだろう。世の中で原発事故や地震や台風などによる大災害が起きると、その原因や対策を検討することが必要になる。そこで必ず登場するのが「専門家」と呼ばれる人々だ。政府が設けた委員会の委員に任命された「専門家」たちが議論をして、その結果を官僚たちがまとめて報告書をつくり、公表する。さらにそれをマスメディアが世間、つまり、私たちに報道をする。いわば政府の方針に「お墨付き」を与えているのが「専門家」たちだ。そして、国民は「専門家がそう言う結論をだしたのだから本当だろう」と信じて、「安心」をする。「専門家」という言葉が国民にそれ以上の疑問を持たせない効果を発揮している。

 ところが、「専門家」とは文字通り、その「専門内」のことはよく知っていても、「専門外」のことはほとんど知らないのは当然である。従って、様々な分野の技術が複合してできている超複雑なシステム、例えば、原発などは一人の「専門家」が全貌を把握することは不可能である。つまり、全体を理解できない人々が政府の方針に「お墨付き」を与えている現状は極めて危険なのだが、「専門家」という言葉を聞くと国民は思考停止をして「安心」をしてしまう。国民にとって「専門家」たちは、安全祈願式の「神」と同じ役割を果たしている。すなわち、今でも日本の社会には、「専門家」と呼ばれる八百万の神々が住んでおり、昔と同じように威力を発揮していると言わざるを得ない。

2021年11月10日  自戒をこめて 記 小倉志郎

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