今年も残りわずかとなりました。
8月は広島、長崎の原爆投下、敗戦記念日と戦争関係の記念日が続き関連番組が多く流されました。
先月11月3日は憲法公布記念日であり、このHPで平和憲法制定後50年を経て初めて公開された
(明治)憲法改正案委員会小委員会の議事速記録を基に、憲法が占領軍による一方的押し付けとはいえないことを書きました。
今月12月8日は日本が米英蘭に宣戦布告した太平洋戦争の開戦記念日です。
84年前の1941年12月8日は現地ハワイは12月7日日曜日でありアメリカは休日、兵士にとっては休養日でした。
日本海軍による不意の奇襲攻撃で米兵と米艦船には甚大な被害がもたらされました。
太平洋戦争後もアメリカ人は口々に日本は卑怯者!「真珠湾を忘れるな!Remember Pearl Harbor!」 との侮蔑の言葉を浴びせました。
私は1973年、敗戦から28年後にアメリカ カリフォルニア州立大学バークレー校に留学しましたがバスの中で何度か米人に「ジャップ(JAP)」と呼ばれました。
さて真珠湾攻撃は奇襲ではない、在米日本大使館員の手違いで宣戦布告が遅れただけという人がいます。
しかし日本軍は真珠湾攻撃の直前にマレーシアのコタバルを正真正銘、奇襲攻撃しています。
マレーでの日本兵の残虐行為については「14歳から考える恒久平和のつくり方」で少し触れていますのでお読みください。
さて本題です。
旧日本軍のエリート中のエリートだった遠藤三郎元陸軍中将(陸軍士官学校26期)が私の地元で余生を送られていたことを私は講演で必ず触れます。
彼は戦後一貫して軍備全廃を訴えて日中国交回復の道筋を作りました。
ある時、通産事務次官経験者の佐橋滋氏との対談で、お互いに「こんな官僚がいたとは?」「こんな軍人がいたとは」と言ってお互い軍備が不毛であることについて意気投合したとする記録が残されています。
戦時中、南方の戦場で戦闘を指揮し参謀本部も経験、戦争末期には陸軍航空士官学校長や軍需省(大臣は東条英機首相兼務、次官は岸信介)で航空兵器総局長官を務めた遠藤三郎さんの戦後の軍備全廃運動に、私は心から敬意を表し自信を持って非武装中立運動を進めています。
軍備は日本の平和にとって何の役にもたたないばかりか有害です。
世襲4代目の小泉ボンボン防衛大臣に戦争の悲惨などわかる筈もありません。
戦後世代の高市首相は「台湾が中国に武力侵攻される気配があれば自衛隊を出動させる」と戦後の日中外交史実を知らず総理大臣として失格発言をした挙句、訂正しません。
高市首相の安保政策はどれも人気の拠り所、極右保守層におもねるものであり「平和の敵」鷹一(たかいち、鷹が一番お似合い)です。
私の非武装中立日本の実現計画は私自身の参院選敗北(運動力不足)もあり残念ながら達成期限を2年延期して2027年とし来年内に政権交代を目指します。
12月8日を記念する埼玉新聞の佐藤達哉記者による渾身の取材記事(添付)をお読みください。

私は本取材を取り持ち取材にも同席しました。
2025年12月20日 記
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遠藤三郎氏の経歴を少し読みましたが、大変なエリートで、軍人として出世し、関東大震災の大杉栄事件を指揮した甘粕や731部隊の石井士郎とも親交があったようですね。戦犯として巣鴨プリズンに入所するも、後に狭山の陸軍士官学校跡地に入植し、護憲、反戦運動に参加され、片山哲らと政界に加わったり、日中友好軍人の会で毛沢東らと会われている。戦中戦後の変化の原因が何だったのかもう少し知りたいです。元軍人だったからこそ知る戦争の虚しさだったのでしょうか?
「満州事変前に形成された遠藤三郎の人物像」張こうほう?著で、フランス留学で第一次大戦の悲惨さを実感し、連合思想を学んで、非戦平和思想に繋がったことが分かりました。第二次大戦ではそれを活かすまでには至らず加担してしまったのは残念。