―以下本日担当の小倉志郎さんの寄稿文の引用―

 前回の投稿で「衆愚政治」を脱するには国民が「衆愚」から「衆賢」へ変わることが必須と書いた。

しかしそれは至難であること、そしてなぜ至難なのかその理由も書いたが、決して不可能ではない。

以下、その方法を書く。

個人として愚人が賢人に変わるのは「衆愚」から「衆賢」へ変わるより容易だ。

個人が愚かな考えや行為により「痛い目」に遭えば、その経験が再び「痛い目」に遭うまいとして賢くなろうとする動機になるから、他人がとやかく言わなくても良い。

問題なのは集団が衆愚によって「痛い目」に遭った場合だ。

その「痛い目」は集団全員が等しく味わうものではない。

例えば、戦争が起きても全員が戦死するわけではないし、不景気になっても全員が貧しくなるわけではない。

即ち、集団の中にいる「痛い目」に遭わないものには賢くなろうとする動機が無いのだ。

だから国民を「衆愚」から「衆賢」に変えるには集団全員を賢くするための動機付けが不可欠だ。

それには「痛い目」にあった部分的な人々の経験を、多くの人々が自分のことのように受け止めるための情報共有が必要だ。

即ち、集団として体験している不均一な「痛い目」の実状を広く伝え合えば良い。

今の日本では、「痛い目」に遭うのを「自己責任」とする政府の宣伝や、政府に忖度するマスメディアが、国民の実状認識を妨げている。

しかし、「衆愚」を「衆賢」に変えるために個人としてできることは無数にあり、一人ひとりが個性的な方法で他の人々との情報共有をすれば良い。

私が6年半続けている「一人デモ」はその一例だ。

2022年12月29日 記

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