―以下本日担当小倉志郎さんの寄稿文の引用―

 太平洋戦争末期、1944年の夏、天皇の側近たちは日本の勝利の可能性が無いことを覚り、どういう負け方をすれば昭和天皇と天皇制を守ることができるかの検討に入った。

国民には「本土決戦で死ぬまで戦え」と号令しながらだ。

しかし、時間が経つほど戦況は悪化し、遂に1945年2月には天皇の従兄の近衛文麿が早期停戦交渉開始を薦める上奏をした。

だが、昭和天皇はどこかの局地戦で戦果を挙げて立場を有利にしてからにしようと近衛の上奏を拒否した。

その結果、東京を含む全国各地の大空襲、沖縄の地上戦、太平洋各地の日本軍基地の「玉砕」、ヒロシマ・ナガサキ原爆投下を招き、同年8月15日の降伏に至る。

「歴史に“if”は無い」と言うが、もし、同年初頭に停戦していれば、約310万人と言われる日本人の犠牲者は約200万人少なくて済んだと言われている。

昭和天皇の停戦交渉を遅らせた判断ミスによる国民の犠牲は大きすぎる。

それから79年後の今、ウクライナではゼレンスキー大統領が「ロシア軍を占領地域から撤退させることが停戦交渉開始の条件だ」と言っている。

そんな条件ではいつ交渉に入れるかわかりはしない。

戦争が継続すれば、日本が経験したように膨大な数の犠牲者が生まれるだろう。

ゼレンスキー大統領は昭和天皇の「負け下手」の轍を踏もうとしている。

背後でそれを後押ししているNATO。

そのNATOのお先棒を担いでいるのが

岸田自公政権だ。

2023年6月15日 記

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