遥かなる大地―我が戦記と俘虜記-水野皖司

―以下部分引用―

私は東大法学部に入学した直後の昭和18年12月1日、いわゆる学徒動員令で千葉県柏の第四航空教育隊に入隊し19年4月から三重県加佐登にあった第一航空軍教育隊(略して鈴鹿の軍教)で幹部教育を受け、10月末に将校勤務の見習士官に任ぜられた。

専門は一貫して武装であった。

武装とは軍用機に搭載された機関砲やその付属装置の整備、点検、修理、交換、弾薬補充、演習援助などを担当する。

本部のほぼ全員が中年の応召士官で1年志願の出身者と思われた。

中でも四日市の市会議長をしていたという永田中尉などはもうかなりの年配であった。(中略)

ソ連に抑留された作業大隊の総数は569個。57.5万名、そのうち約5.5万人(9.6%)が死んだ。

こんにち平和な日本で50人、100人の労働災害が発生したら大事件だ。

5万5千は大きな犠牲であった。

しかし私たちは戦時中、日本政府や軍により徴用されたアジア各国のロームシャ(労務者)たちの犠牲がどれほど大きなものであったかも同時に思わなければならない。

中国や朝鮮半島、台湾はもとより、最も平穏であったとされるビルマでさえ、それによる死者は3~8万人に上ったという。

戦争は人の命を塵のように軽くする。

(中略)

わたしが生き残れたことは偶然の結果に過ぎないと思う。

私の徴兵区は東京神田、第一師団管区だったから、地上兵科ならレイテ(フィリピン)行きであった。

大岡昇平氏の「レイテ戦記」に詳述されているように、レイテ島に渡った第一師団は1万3千5百の将兵のうち生還者はわずか50名に過ぎない。

私は航空兵とされたことで救われている。

在学中のため、徴兵が延期されたことも生存の条件であった。

―引用以上―

私に40冊近い戦記物を送ってくれた水野氏自身の戦記は入隊からシベリア捕虜生活そして帰国までの3年半の間の記録だ。

余談であるが現役最後の頃に親交のあった近衛文麿元首相のご次男故近衛通隆氏(元東大資料編纂所教授)から長兄文隆氏はシベリヤで抑留されたまま昭和31年病死されたと聞いた。

今の安倍・麻生・岸田首相、河野・浜田・加藤大臣など世襲甘ちゃん政治家たちと違う。

2023年7月8日 記

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