死の谷の終戦
1945年8月19日に停戦協定を知り、20日に「詔書拝読」。
そして患者が正式に終戦を知らされたのは9月に入ってからである。
しかし終戦はすぐわかった。
砲声がピタリとやんだからである。
ところが8月15日から9月初旬までのその日その日が、患者の生死を分ける一日となった。
芋も草もない。
ルソンの山は雨と夜に冷え、寒いから火を絶やせない。
その薪もないから最後の手段、小屋が壊され始める。
誰の顔にも死相があわらわれ、蠅がたかり始める。
一人、二人と息を引き取り、日が暮れれば人魂がかこむ。
棚田を登りきったところに看護婦さんの小屋があった。
数名の看護婦が小屋からあふれ野宿同様に病で臥していた。
私がその小屋の前で杖にすがって息をついていた時である。
道端に臥したままの20歳前後の看護婦が人懐かし気に声をかけて呼ぶ。
「お元気で良いですね。
もう一度家に帰りたい。
学校時代が懐かしい。母に会いたい」
青白くやつれた頬が涙で濡れている。
私は自分自身を励ますように
「大丈夫ですよ。
もうすぐ帰れますよ。頑張りなさい」
こう言って一口にもならない小芋を手に握らせる。
細い腕が力なくそれを胸に載せて、「もう駄目です」とつぶやいた。
既に小さな白い虱(しらみ)が乱れた髪をまぶしている。
栄養失調で衰弱した身には移動は大変な負担である。
痩せは肉の多いところから始まる。
尻の肉がなくなるから硬いところには痛くて腰が下ろせない。
痩せが進むと骸骨が皮をかぶったようになる。
終戦の年の暮、家にたどり着いたが、高さ20センチほどの玄関の上り口を一人で上がれなかった。
―引用終り― 完
自公政権がこのまま続き次の総選挙でも改憲派が勝利するならば、此の体験記は「日本が戦争するわけがない」と考える若い男女の明日の我が身になる。
2023年8月9日「長崎原爆忌」に 記
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